MY STORY

Yuri

「このまま飛び込めたら、どんなに楽だろう」

2017年9月。31歳の秋。

私は、駅のベンチに座って無気力に電車を眺めていた。

私は、社会復帰を目指す人をサポートする相談支援員・講師という仕事をしていた。

やりがいもあった。喜びもあった。

しかし

精神的にも肉体的にも、限界が近いことを感じていた。

この時私は数ヶ月休んでいなかった。

この感じは初めてじゃない。以前の職場でも多くの業務を1人で抱え込み、体調を崩して退職していた。

しかしそれは、「当時の会社がブラック企業だったから仕方がない」と思っていたが、今回も同じように心が折れそうになっていた。

「好きなことをやっているはずなのに、なんでこんなに辛いんだ……」

私は、『好きな仕事に就ければ幸せになれる、救われる』と思っていた。
でも現実はそうじゃなかった。

こんなに頑張ってきたのに、なんで?

「もう、いっそのこと楽になりたい」

ベンチから立ち上がってゆっくりとホームに向かっていった。

このまま前に倒れてしまえば、どんなに楽だろう。

そんなことを考えながらフラフラしていると激しい雨が降り出した。

ホームに吹き込んでくる雨に目を奪われていると電車が到着し、目の前のドアが開いた。

しかたなく、

人生を辞めるのは延期することにした。

はじまり

神奈川県横浜市。動物園の近くで生まれた私はバンドマンの父とスナックのホステスである母との間に生まれた。

私が1歳になるころ、祖母と伯父、伯母、従姉の住む家に預けられ、それから21歳までその家で暮らすことになった。

養子になったわけではない。自分には両親がいることも知っていた。父は養育費を払いに定期的に家に来ていたし母とは数年に1回会うこともあった。

幼稚園や学校の行事には祖母が来てくれるので

「なんでゆりちゃんのお父さんとお母さんは来ないの?」

と無邪気に聞かれることもあったが、それは私が知りたいくらいだった。なんて答えればいいのか私にわかるわけがなかった。

他者のために生きるという学び

担任の先生と祖母は年齢が近いせいか仲が良く、祖母は家でのことをなんでもかんでも話していた。

私は比較的ぼーっと過ごしていたいタイプだったのに、祖母から何かをお願いされたのか担任の先生は私を学級委員長に指名し、転校するまでの4年間学級委員長をつとめるのが私の義務とされてしまった。(ほんとうは生き物係がやりたかった)

何か行事があれば、私がまっ先に覚えてみんなに教えなくてはいけない。

例えば、ある時郵便屋のお仕事体験というイベントがあった。

郵便屋さん役とお客さん役を交代で体験するという流れだったが、私はずっと郵便屋さんでいなくてはならなかった。

友達からハガキを受け取って喜んでいると

「何、ヘラヘラしてるの!!あなたはお客さん役なんかやっちゃだめに決まってるでしょ。早く働きなさい」

と大声で叱られて恥ずかしい思いをした。

他にも、遠足などでグループができても必ず班長にされた。

遅刻しがちな友人を時間に間に合うよう登校させるため、毎朝遠回りして家まで迎えに行かなくてはならなかった。

先生の質問に答えられないとみんなの前で殴られた。

子供ながら息苦しかった。

心を閉ざした日

ある日私は祖母に「もう死にたい」と言った。祖母のリアクションは思い出せない。
しかしその翌日のことはよく覚えている。

朝礼の時間。

担任の先生がこう言った。

「死にたいっていった奴がいるらしい。子供のくせに何言ってんだ?何も苦労してないガキのくせに。そんなこと言ってんじゃねーよ」

と。

それを聞いた瞬間

「なんでそんなこと皆んなの前で言うの……。おばあちゃんも、なんで先生に言っちゃったの……」

こうして私は担任の先生と、祖母の行為に絶望し完全に心を閉ざした。
おそらくこの時から私は『誰かに本音を話す』ということをしなくなった。

父との二人暮らし

小学校4年生の頃、祖母が亡くなった。

そして、しばらく顔を見ていなかった父が現れ

「一緒に買い物へ行こう。好きなもの買ってあげるから」

と私を車に乗せて横浜駅に連れて行かれた。

色々と見て回った後、ハンズの中にあったカフェに入って大好きなチョコレートパフェを注文した。ファミレスのパフェと比べて大人っぽく見えて、ワクワクしながら食べていた。

すると父が

「話さなきゃいけないことがある」

とちょっと困ったような顔をしながら話し始めた。

「俺はお前をおばあちゃんに預けていた。おばあちゃんが亡くなったから、お前は俺と暮らさないといけないんだ」

と。

そう言われてもすぐに理解できなかった。

目の前の人が『血のつながった父』であることはわかる。

しかし、私にとっては家にお金を置いていくだけの“ただのオジサン”だった。
そんなよくわからないオジサンと2人で暮らすなんて考えられない。

今まで、海に連れて行ってくれたり、泳ぎ方を教えてくれたり、たくさん遊んでくれていたのは伯父さんだった。決して、今目の前にいるオジサンではない。

このオジサンと二人で暮らすと想像したら急に怖くなった。

「…嫌だ!」と必死に訴えが「もう決まったことだから」と、跳ね除けられるだけだった。

パフェも残して、大泣きしながら車に乗った。

何を話していいかわからないから、家に着くまで寝たふりをした。

その後、伯父さんに言っても、伯母さんに言っても

「決まったことだから」

と、何も変えることができなかった。

「同じ学区内に引っ越して転校しないようにするから」

という父の言葉を信じて仕方なく、春休みの間に引っ越しをした。

しかし実際はアパートは別の地区にあり、転校しなくてはならないことを知ってまた絶望した。

「友達にお別れを言えなかった」

そうして始まった父との二人暮らし。料理や洗濯といった家事は私の仕事になった。

「俺は外で働いてるんだから、お前が家事をするんだよ!GIVE & TAKEって言葉を覚えろ」

とよく怒られた。どんどんと生きる気力がなくなっていた。(GIVE & TAKEとう言葉が嫌いになった)

学校には遅刻するようになった。「お腹が痛い」とずる休みをするようになった。夜ご飯は作って、父が帰るころには寝たふりをする毎日が続いた。

・・・

ある日の日曜日、父が「お前に合わせたい人がいる」と言った。

そうして現れたのは、母だった。

それからは毎週日曜日母と会うようになった。家で家事をしてくれる日もあれば3人で出かけることもあった。

しかし私は、3人で出かけるのは嫌だった。3人でいてもいつも私は1人だったから。

父は母を源氏名で呼ぶ。

「ノゾミ、何が欲しい?」

一緒に出かけるたび、父は母に何かをプレゼントしようとするが、私には何が欲しいか聞いてくれない。買ってくれない。

家族と一緒にいるというより、ホステスと同伴しているように見える父を心底気持ち悪いと思った。私はずっと、並んで歩く二人の少し後をトボトボとついていくだけだった。

そしてもう1つ嫌だったのは、母と一緒にいるときはご機嫌な父も私と二人になると怒ってばかりいることだった。

父が怖い。

中学校に入る頃にはリストカットをするようになった。いつも辛くて苦しくて毎晩泣いていた。

どうにかなっちゃうんじゃないかと思うくらい情緒不安定になっていった。そんな中気分を落ち着けてくれるのがリストカットだった。

勢いに任せてカッターを振り下ろす。

痛い

真っ赤な血が流れる

すると

「ああ、私は生きてるんだな」

と思えた。

居ていい場所の在りか

1人で伯父さんの家に行ったとき13歳年上の従姉が、私の腕が傷だらけなことに気がついて顔色が変わった。

これまでの経緯を話すと従姉が顔を真っ赤にしてブチギレた。近くのカフェに伯父さんと父を呼び出し

「今ゆりの腕が傷だらけのことを知っているのか!?なんで家事を全部、子供にさせてるんだ!」

私が泣きながら話した内容1つ1つに対してキレていた。本当にキレていた。(店中の人がびっくりしていた)

その後、両親と伯父さん家族が集まって、これから『ゆりは何処に住むべきか』という会議が行われた。

「ゆりはどうしたいんだ?」(この時、はじめて私の意見を聞かれた気がする)

しかし、伯父さん家族に迷惑をかけたくないという思いもあった。けれど、父と二人で暮らしたくない。だから消去法で

「お母さんがいい」

と答えた。

母は長いこと沈黙をしていた。そして

「それはできない」

と言った。

「結局、私はいらない子なんだな」

その後、話はまとまらずその日は解散となった。

しかし、私はこのまま父と2人で暮らしていく自信がなかった。


日曜日、また伯父さんの家を訪れた。洗濯物を畳んでいる伯母さんの前に立って泣くのを必死に我慢してこう言った。

「この家に住まわせてくれませんか」

と。

すると伯母さんは

「いいよ」

と言って抱きしめてくれた。

私は申し訳ない気持ちと、ほっとした気持ちと複雑な気持ちでいっぱいになって、しばらく大声を出して泣き続けていた。

無事引っ越しを終えて3年半ぶりに伯父さんの家に戻ってきた。それからしばらくは割と平穏に暮らすことができていた。しかし、従姉が、伯父さんと伯母さんにこう話ているのを聞いてしまった。

「本当の家族3人で暮らせた期間は短かったね」

と。

本当の家族

この言葉が深く胸に突き刺さった。

「私には居場所がない」
「本当の家族にはなれない」

この言葉が呪いのように繰り返し頭の中を再生されるようになった。

伯母の病と家族の形

それから数年が経ち、高校3年生となった私は、友人たちが進路をどうするかと話をしているのを羨ましく眺めていた。私は、本当は芸大に行きたかった。芸大が無理なら専門学校でも。

そんな話を従姉にしたら

「え!!お金もったいないよ!学校行くために自分でお金貯めるって言ってたじゃん」

というリアクションが返ってきた。

そう、私は高校生になったらアルバイトをして学費を貯めるつもりでいた。

けれども、週7日部活に所属してしまいアルバイトの1つもできなかったのだ。

しかも、どうやら父は高校から養育費を入れていない。

学費も全部伯父さんたちが出してくれている状態だった。

「私は進学できないんだな……」

家庭の事情を先生に相談することもできず、このとき奨学金というシステムさえ頭になかった私は、今から何年かアルバイトをすれば学校に行けるかもしれない。

そう思って、部活を引退後アルバイトをしはじめた。高校を卒業後、週6日アルバイトに勤しんだ。しかし、それも長くは続かなかった。

伯母さんが、重度の双極症となり、幻覚を見て徘徊するようになったため看病(というか見張り)が必要になってしまった。入院レベルであったものの病院からは

「ベッドが空くまで待ってください」

と言われ、家で見守る日々が続いた。

幻覚を見ているせいで、すべての食べ物に毒が入っていると信じていた伯母さんは、ご飯を食べなくなりどんどん痩せていった。

薬を飲ませたくても毒だと思っているから飲んでくれない。お水に睡眠薬を溶かしてどうにか眠ってもらったりした。

ある時、伯母さんは裸足のまま外へ飛び出し近くの河原まで走って行ってしまった。私は必死で追いかけた。

伯母さんは泣いていた。

「どうせ私のことなんか、みんな嫌いなんでしょ!どうでもいいと思ってるんでしょ!」

と大きな声で叫びながら走っていた。

必死に捕まえて、私も叫んだ。

「そんなわけないでしょ!!!!伯母さんのこと大好きだよ!!!!」

伯母さんのカサカサの手を握って、泣きながら家に連れて帰った。

また別の日には、伯母さんが生まれてから今に至るまであった辛かったこと、悲しかったことをたくさん話してくれた。

早くに母を亡くして寂しかったこと。
その後父が再婚し、歳の離れた妹がたくさんできたこと。
家が貧しいからと中学卒業してすぐに公務員になり、家族のために働いたこと。

伯父さんと結婚後は祖母に給与を全て渡していたこと。
お小遣いはほんの少ししかもらえなかったこと。
嫌がらせをされていたこと。

本当は、ゆりを預かりたくなかったが「子供に罪はないから」と預かったこと。
はじめ養子にすると言われたが、それは断ったということ。
伯母さんの父が認知症になったとき、継母はすぐに離婚を切り出し財産を持って逃げたこと。
妹たちも関わらなくなり、父の介護を1人で頑張っていたこと。

小学校の用務員として働いて、子供達に人気者で楽しそうに働いていた伯母さんだったが、実は男性職員から毎日嫌がらせを受けていたこと。

お酒を飲んで暴れる伯父さんに対して疲れ切っていたことなど……。

ずっと一緒にいたのに、聞いたことない話ばかりだった。

伯母さんは長いことたくさんのことを我慢していた。
とてつもなく大きな悲しみを抱えていた。
いつも明るくて笑っていたから、そんなこと想像していなかった。

あれだけ元気だった伯母さんが双極症になった理由がようやく理解できた。そして

なんで誰も助けてくれなかったんだろう。

なんで誰も気づいてあげられなかったんだろう。

なんで私も気づかなかったんだろう!!!

と、ものすごく腹が立った。

そのまま伯母さんと2人でわんわん泣きながら一晩中話をした。

その後は無事入院をすることができ、何年かかけて入退院を繰り返し症状も安定していった。

ある日一人でお見舞いに行くと、私を見た看護師さんが

「あら!お子さん?お見舞いきてくれてよかったですね〜」

と伯母さんに話かけていた。

それを聞いた私は(”お子さん”じゃないんだけどな…。どうせまた、「夫の弟の子なんです」って説明が始まるんだ)と思っていた。

しかし伯母さんは

「そうなのよ〜。私の話を聞いてくれるのはこの子だけなの」

とニコニコしながら私の頭を撫でてくれた。

その瞬間、体の内側から、お湯がぐんぐん湧き出て、溢れ出るような感覚に陥った。

あたたかくて
あたたかくて
仕方がなかった。

「お子さんですか?」

という問いに対して、否定しなかったのは初めてのことだった。

伯母さんの子供になったみたいで、とても嬉しかった。

そして、看病していた期間、伯母さんはずっと幻覚を見ていたから、私が側にいたことや話を聞いていたことは覚えていないと思っていた。

けれども実際は覚えていてくれたし、それを喜んでくれていたんだと知って、20歳の私の体は喜びでいっぱいになっていた。

この出来事があってから、将来、人の気持ちや心に寄り添う仕事ができたらいいなと、ぼんやり思うようになっていた。

結婚、そして“人生脚本”との出会い

伯母さんの体調も安定した頃、私は結婚をした。

伯母さんの入退院も手伝ってくれてお見舞いも一緒に来てくれていた彼なので、伯父さん伯母さん従姉、3人とも結婚を喜んでくれた。

本当に良い人と結婚した。これから穏やかに、幸せに暮らせる。

そんなふうに思っていたのも束の間、またも苦しい生活がはじまった。

何も事件は起こっていない。

なのに、「私は愛されていない」という気持ちでいっぱいになり、たくさん泣いて夫を困らせていた。

「これはおかしい」
「きっと、私がおかしいんだ」

そう思った私は、様々な本を漁った結果、心理学を学ぶようになった。

そして、『人生脚本』という概念を知った。

「自分の人生はこういうものだ」というふうに、自分の人生の脚本を小さいころに書いているというのだ。

それはキャラクター設定と言ってもいいのかもしれない。

人は誰でも小さい頃に自分のキャラクターを設定する。

例えば

「私は居場所がないキャラクター」
「誰にも愛されないキャラクター」
「本当の家族はいないというキャラクター」

という具合に。

大人になってもこれらのキャラクター設定を採用し続けるため、本当は夫に愛されているのにも関わらず

話を聞いてくれなかった
心配してくれなかった

そういった、ささいなこと1つ1つに

「自分は愛されていないから」と結びつけていた。

「私は愛されていないから、話を聞いてもらえない」
「私は愛されていないから、心配してもらえない」
「私は本当の家族は得られないのだから、どうせ離婚する」

というふうに、私はこういうキャラクターです。というのを証明するために無理矢理現象と結びつけるのだ。

そういった心の仕組みがあるとわかった私は、1つずつ1つずつ自分の無意識にあるキャラクター設定を紐解いていった。

多くのことが自分の勘違いだと気づいてからは、今までの態度について夫に謝った。

「私のこと大切にしてくれてたのに被害妄想で勝手に落ち込んでた。本当にごめんね」

そういうと

「人が違うみたいだ……」

と夫は目を丸くしていた。そして、私の謝罪を受け入れてくれた。

限界1

いくつかの仕事を経験した後、29歳でライターとしてWEBメディアに入社し半年後には、編集長兼マネージャーとなった。マネジメントは楽しかったし、読者さんたちの反応を見るのも楽しかった。

しかし、自社メディアに毎日記事を11本出し、外部から受ける記事も出さなくてはならないこと、結果を出さなくてはならないこと……そのプレッシャーがとにかくきつかった。

バズるネタにしなくてはいけない……。
クオリティの高いものを出さなくてはいけない……。
ライターたちに苦労をさせてはいけない……。

記事が足りなければ自分で記事を書き、移動中も休みの日もずっと仕事をしていた。わかりあえたはずの夫とも喧嘩が増えていった。こんなに仕事頑張っているのに、応援してくれない夫に対してめちゃくちゃ腹が立っていた。

そして、

ある時から心臓に針が刺さるような痛みを感じるようになっていた。

その数ヶ月後には、何もしていないのに涙が流れてPCの画面を見ることができなくなっていた。日曜日はベッドから体を起こすことができない。

体も心も限界を迎え、退職してしまった。

数ヶ月の療養を機に、何がダメだったのか振り返った。

すると、できるけど嫌なことをやっていたことに気がついた。

毎日数字を追う
結果を出さなくてはならない
時間に追われるのも苦手。

全てがプレッシャーとなっていた。

しかし、私以外のスタッフはそうでもなく

「ベンチャーってこうでなくちゃ!」

と喜んで会社に寝泊まりする人たちだった。

そんな人たちの価値観に私がただ流されていたとも言える。

本来の私は

休みの日はちゃんと休みたいし
分刻みのスケジュールに追われるような生活はしたくない。

こういった自分の感覚や欲を無視して頑張っていた。

できないならまだしも、やればなんとかできちゃうという性質を持っていたから余計に無理ができてしまった。

そりゃ倒れるわ。

できること=向いている

わけではない。

そう理解した私は「本当にやりたいことをやろう」と決め、心の奥にずっと抱いていた

「人の気持ち、心に寄り添う仕事ができたらいいな」という夢を叶えることにした。

限界2

そうして選んだのがメンタルダウンをした方が社会復帰を目指して通う施設での相談支援員、講師だった。

転職してからというもの、毎日が充実していた。

やりがいがあるし、利用者さんをサポートすること、応援すること。そして、そんな利用者さんが変化していく様子を見ているのが、とにかく楽しかった。

そんな素晴らしい仕事をしているのに何かがおかしい。

メディアと働いているときと変わらず、休みの日も働き業務も多岐に渡り多くの仕事を抱えていた。いつも必死だった。評価されることも怖くなっていた。

好きな仕事だからこそ、期待を裏切ってしまったらどうしよう。利用者さんの役に立てなかったらどうしよう。

そんな不安がどんどん湧いて常に焦っていた。

「まだ大丈夫、まだ大丈夫」常にそう自分に言い聞かせていた。

ある日、施設で行われる大きなイベントの運営スタッフとしてミーティングに参加していた。

リーダーが決めた方針で進んでいたが、このミーティングの後、突然社長から私一人だけが呼び出された。

「あれじゃダメだよ。やっぱり福祉系のスタッフが考えると安全面ばかりを守ろうとして企画に面白みがなくなるのかな。せっかくいい場所を借りたんだから、それをちゃんと生かしたイベントにしてほしい。そこでゆり、エンタメ得意だよね。企画や台本を全部書き直してくれる?」

そう言われた瞬間、頭が真っ白になった。

「いつ、どうやってやるんだ?」

すでに私はキャパオーバーの中踏ん張って毎日を生きていた。時間的にも、精神的にも余裕がなかった。

しかし社長は、私を見つめたまま視線を外さない。

……期限も残りわずか。間に合うのか?
このスケジュールで自分にできるのか?

今まで先輩たちが勧めていた案件を、急に私が全部考えるなんて先輩たちにどう思われるか……。でもこうやって期待されてるなら答えなくちゃいけない……!!

「わかりました。がんばります」

そういって、その仕事を受けることにした。
部屋を出ると、他のスタッフはみんな帰っていた。

足取りが重い。トボトボと駅に向かいホームのベンチに腰を下ろした。しばらく立てなかった。

なんで私ばっかり、こんなに仕事を抱えることになる?家に帰ってもずっと仕事をしてる。もう数ヶ月休んでいない。どうやってこなせばいい……?

ぼんやりとホームを見つめると

「このまま飛び込めたら、どんなに楽だろう」

という思いが込み上げてきた。

 「楽になりたい…」

結局飛び込むことはせず家に帰った。

必死になってイベント台本を書き上げ、社長にOKをもらい、無事当日を迎えた。

司会も担当して、様々なトラブルに対しても笑いを取って乗り越えた。

イベントを終え、片付けをしようと舞台から降りると、私の前に行列ができて

「すごく良いイベントでした!」
「楽しかったです!」
「めちゃくちゃ笑いました!」

と、利用者さんだけでなく、ご家族までもがわざわざ私に声をかけてくれた。

「あ〜〜〜〜よかった〜〜〜〜」

辛かった準備期間も終えてしまえばこんなもの。

そして、このイベントを終えればもう少し楽に仕事ができるはずと思って、肩の荷が降りたように感じた。

そう思ったのに

やっぱりそうはいかない。

先輩がミスすれば「ゆりさん、よろしく」とサポートを任され、利用者さんから先輩にクレームが入れば「担当をゆりさんに変えます」

相変わらず業務は増え、担当する人数も増えていった。

人事評価の時期になり、施設長が私を呼び出した。

業務を数値化したリストを見せられた。そのリストには、私の業務量が先輩の5倍になっていることが記されていた。施設長はこの数値を指さしながら

「申し訳ないんだけどこの数字を上には提出できない。これがバレてしまっては他のスタッフの評価が著しく下がってしまう。社長に目をつけられたら彼らが仕事を続けられなくなるかもしれないから……悪いね」

と。

(は?)

返す言葉が出てこなかった。

まるで先輩たちを人質にとられているような気分だった。

結局「わかりました……」としか言えなかった。

もちろん給与は先輩の方が高いままだった。

疲労だけでなく鬱々とした気持ちが増えていった。

そんなある日の朝、目が覚めた瞬間から怖いという気持ちに襲われていた。
心臓もドキドキしている。

「でも、仕事に行かなきゃ……」

異様に重い体に鞭打ち起き上がる。

なんとかバスに乗り、電車に乗り、施設に辿り着いた。

施設のドアを開けた瞬間

ガタガタガタ……!!

体が震えだした。

(怖い!!!!)

施設長に自分の異変を説明しようとしても、出るのは涙ばかりで言葉が出てこない。

とはいえ、ここはメンタルダウンした方の社会復帰をサポートする場所。

私に何が起こっているかは、スタッフみんながわかっていた。
この日はどうやって帰ったか覚えていない。

その後休職、最終的には退職をしまたも数ヶ月無職となった。

もう嫌だ、2度とこんなふうになりたくない。

自分と対峙する

とことん自分に向き合った。
精神科にも通ったしカウンセリングも受けた。

しかし、カウンセラーさんにまったく心を開いて話すことができなかったため1回で辞めてしまった。

とにかく自分で自分を分析し続けた。
自分が嫌なこと、したいことを振り分けた。

  • 満員電車に乗りたくない
  • ちゃんと休みたい
  • 朝はゆっくりしたい
  • 仕事もマイペースで進めたい
  • 無理に働かなくてもお給料は増えるのがいい
  • 楽しく仕事がしたい

自分の気持ちを整理しつつ、散歩をし、ご飯をちゃんと食べてよく寝たりして、体調はどんどんと良くなっていった。

体調が落ち着いてきて、とりあえずアルバイトをすることにした。

社長1人と、受付スタッフ1人の小さな会社で時給1000円のデザインとライティングの仕事に採用された。

社長は今まで出会ったことがないくらいゆったりした方で、仕事がなければギターを弾いたりプラモデルを並べて楽しんでいた。

「お菓子あげる〜」
「休憩してね〜」

とよく言ってくるのだが、私は

(え?休憩時間じゃないのに休憩って何?)

というまだまだ社畜脳が発動して、混乱することが多々あった。

しかしここで無理しては今までと同じになってしまう。

仕事をしたがる自分にセーブをかけてゆっくりと仕事をするよう、努力した
休みの日にチャットを開かないよう、努力した。

そんな働き方に少しずつ慣れ、一息ついたりしながら仕事ができるようになった。

そして、会社はどんどん大きくなっていきスタッフも10人を超えるようになった。

その間も、自分に向き合うのを止めなかった。

心理学を学ぶだけでなく、とことん自分に生かしていった。

生まれ持った性質にも興味を持った私は、生年月日で自己理解を深めることができる西洋占星術や四柱推命といったものも学んで自分を分析しまくった。

本音を話すのが難しいと感じていた私は、自身の無意識を理解するのに役立つタロットやオラクルカードも学んで定期的に自分の無意識と向き合った。

頭ではわかっているけれどなかなか手放せない癖を手放すために、フラワーエッセンスという植物療法も学んで毎日フラワーエッセンスを摂取していくことで、どんどんと軽くなっていった。

その結果、

働き方や夫婦関係も、理想の形に変わっていった。

仕事で言えば

  • フルリモート(完全在宅)の許可をもらえた
  • シフトも好き勝手変更できるようになった
  • 時給が2000円になる
  • ボーナス制度がない会社で、アルバイトなのにボーナスをもらう

という形に変わっていき、休職中に書き出していた

  • 満員電車に乗りたくない
  • ちゃんと休みたい
  • 朝はゆっくりしたい
  • 仕事もマイペースで進めたい
  • 無理に働かなくてもお給料は増えるのがいい

といった自分の望みを、ちゃんと叶えていった。

ちなみにフルリモートなのは、私だけであったり、この会社が合わないといって数ヶ月で辞める人も少なくなかった。そういった環境でもしっかり自分に都合よく変化していった。

私を動かす無意識

今振り返ると、どれだけたくさんの無意識が私を動かしていたかがわかる。

誰かの機嫌を損ねないように無意識でたくさん動いていたこと。
「断る」という選択肢が思い浮かばなかったこと。
体調不良で休みたいと連絡するのが怖かったこと。
相手の機嫌を損ね、嫌われてしまう、役立たずだと思われるのではないかと不安だった。
できないのは自分の能力不足だと思い、努力が止められない。寝ない。点滴を打って働き続けても何がおかしいのか気づけず、同じ失敗を繰り返す……。

これらは本当に無意識で行われているので、そう考えていることでさえ当時はわかっていなかった。

いかに大人を『怒らせないように』過ごせるか、そして唯一褒められた『優秀でいつづけられるか』が、私の『生き残るための戦略』だったから。

一人では辿り着けない場所

これまで他の場所でカウンセリング、セラピー、コーチングなどを受けたことがあるというクライアントさんからは、こんな言葉をいただくことがある。

今まで感じられなかった深いところまで自分の感情を感じることができたのは初めてです」

「こんなに泣いたのは子供の頃以来です」

それを聞くたびに、カウンセリング・コーチングで有名な方がおっしゃっていたある言葉を思い出している。

「ガイドする側の人間が潜ったことのある深さまでしか、相手を連れていってあげられない

もし本当にそうなら、ありとあらゆる感情を味わってきて、潜ってきて良かったなと心から思う。

今の私は、昔のどんなに辛いシーンを思い出しても「あのときは頑張ってたよね、私」という穏やかな気持ちで眺められるようになっている。

今の私

働き方以外にも

  • 夫を幸せにしたい
  • 猫と一緒に過ごす時間をたくさん欲しい

という思いも同じく叶っていった。

夫とは本音で語り合う時間が増え、辛い時はお互いに弱音を吐いた。どんなときも支え合うようになった。

「夫は私を愛してくれていない」

と拗ねた時期もあったけれど、本当は『私が想像していた愛』よりももっと深い愛で私を支えてくれたことに気づくことができた。

今では、毎日いってらっしゃいのチューとおやすみなさいのチューを欠かさずし、隙あらばハグをして毎日ラブラブである。(結婚歴19年)

  

仕事がフルリモートになったことで、猫と過ごせる時間も自ずと増えていった。

朝目覚めた瞬間に腕の中で眠る猫がいる。時間に余裕があるから、しばらくそのまま猫を眺めることができる。

「かわいすぎる幸せだ……」

そんな気持ちで毎朝を迎えている。

本当に、心も体も軽くなった。

「私はいらない子なんじゃないか」
「優秀でないと認めてもらえない」
「誰かの役に立っていないと存在価値がない」

そんなふうに思っていた自分はもういなくなり、今では自分のことが大切で仕方がない。

そして自分を救うために学んだ、心理学、西洋占星術、四柱推命、タロット、オラクルカード、フラワーエッセンスたちがクライアントさんの役に立っている。

例えば

離婚をして、子供との接し方がわからなくて困っていたが、自己理解が深まり、感情を解放したことで生きやすくなった。それとと同時に子供との距離が縮まり、子供の笑顔も増えていった。

適応障害で休職し、これからの仕事に悩んでいたが、セッションを受けてからは、無理なく人とコミュニケーションを取れるようになり、いろんな人との交流が増えた。そして相手から「一緒に仕事がしたい」とオファーをもらうようになりすんなりと就職先が決まった。

と、このようなご報告をいただくことが増え、私が一番驚いている。

サポートさせていただいたクライアントさんたちも、家族関係や仕事も良い方向へと変化していった。

こういう変化を聞くたび私は嬉しくて涙目になっている。

私自身も生きやすくなり、クライアントさんの幸せにも関わりながら毎日を過ごしているなんて幼少期の私、社畜時代の私が知ったらきっと信じてもらえないだろう。

私のように

ちょっと変わった環境で生まれ育ったり
個性的な親の下で育ったり
人生の始まりが大変だったとしても

それまで想像できなかった未来を迎えることができるし、持っている希望を叶える道筋は必ずあるってことを私は伝えたい。

信じ難いかもしれないけれど、ほんとに叶えられるから。

何回も心が折れて、絶望してきた人も安心して欲しい。
自分が人生を変えたいと本当に思うのなら絶対に大丈夫。

これだけ何回も絶望してきた私が、こうなった。

だから、自分の人生を諦めないでほしい。

最後に

ここまで何回も精神的にも肉体的にもボロボロになって、たくさん迷惑をかけたけれど、ずっと支えてきてくれた夫、ありがとう。私を信じて本音を話してくれるクライアントさん。ほんとうにありがとう。

そして、私。ここまで頑張ってきてくれてありがとう。

ということで最後までお読みいただきありがとうございました。

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